肯定する人、否定する人
どうも、太鼓持ちの達人(さばみそ)です。
大学生の頃、サークル内で自己紹介をする時に『好きなもの』ではなく『嫌いなもの』を積極的に聞いてくる後輩がいました。彼曰く「嫌いなものを知っていれば怒られたり機嫌を損うことを避けられるから」
過去に何かあったんでしょうか。それとも私が怖い顔してたのか。
ここから本題
肯定されたい(賛同を得たい、認められたい)と求める人は多く、その需要に応えるかの如く肯定をコミュニケーションの軸にしている人は好まれます。私も人から肯定されることは基本嬉しく感じますし肯定的な人とは仲良くなりやすいです。
一方で否定する(迎合しない、認めない)ことが悪とされる、否定する人は嫌われる、そんな世の中に見えてしまうことがあります。多様性を受け入れよう、認めよう、といったダイバーシティの考え方が広まってきた影響か「否定することが否定される」そんな状態になっていないかと少し心配になったり。
話を広げすぎると収拾つかなくなるので、日常会話の一幕から肯定と否定について考えます。
【意見を述べた場合】
「年末だし美味しいものを食べよう!」
>肯定的な返答「年末と言えば鍋!寿司!たくさん食べよう!」
>否定的な返答「年末だからってはしゃぐことないよ。普段通りの食事でいいよ」
>単純な肯定「食べよう」
>単純な否定「食べない」
返答を4つ並べてみました。どのような印象を受けるでしょうか?
例のような場合、肯定的な返答、単純な肯定を受けたなら「美味しいもの」をイメージして買い物に出かけることができますし、共感が得られたことによる喜びを感じますね。
反対に否定的な返答、単純な否定を受けた場合「普段通りの食事」をイメージして買い物へ出かけることは可能かもしれませんが人によっては難しいかも。そして何よりも共感が得られず自分の意見が通らなかったことに悲しみ(あるいは怒り)を感じます。
【質問した場合】
Q.「私、この仕事を上手く進められるでしょうか...」
>肯定的な返答「仕事の進め方を工夫すればきっと上手くいくよ」
>否定的な返答「仕事の進め方を工夫しないとたぶん上手くいかないよ」
>単純な肯定「上手くいくよ」
>単純な否定「上手くいかないよ」
さて、ここではどのような印象を受けるでしょうか?
肯定的な返答をされたことで「よし、工夫してやってみよう!」とやる気を出す人もいれば、否定的な返答をされたことで「ふむ、何か工夫して進めなければ」と気を引き締める人もいるでしょう。両者を見比べたとき安易にどちらが良い・悪いとは言えないように思います。
一方で単純な肯定と否定を見比べるとどうでしょうか。単純が故にどちらも根拠や理由のない返答になってしまうため、肯定した場合にも「他人事だと思って適当に言ってないか??」と思われたり、否定した場合にも「なんだこいつ??」と苛立たせる、不安にさせるなどあまり良い印象は受けないかもしれませんね。
まとめ
- 意見への返答は理由や根拠に関わらず肯定されたら嬉しい。否定されたら悲しい。
-
質問への返答は肯定・否定問わず根拠や理由の有無で印象が変わる。
人のご機嫌を取ろうとするのであれば肯定の意識を持つことが役立ちそうですが、安易に「そうだね、そうだね」と口にするばかりではいずれボロが出そうです。時には否定的な言葉を口にして、それがむしろ喜ばれることもあるかもしれません。
結局のところ、冒頭でも触れたように肯定も否定もコミュニケーションには必要不可欠でありそこに優劣はないのです。特に『否定』を強く嫌う人には『否定』が恐ろしい怪物や嫌悪すべきものではないということが少しでも伝わればいいなと願います。
オマケ
『子どもの頃は生きているだけで褒められていたのに、いつの間にか生きているだけで嫌われる世界になっていた』
まるでなろう系小説のタイトル。読み手次第では事実かも。
成長するにつれて太る・ハゲるなど身体的特徴が出てくるとそれだけで一定層から嫌われます。ハゲは赤ちゃんも同じなのに(どうして......!!)
世間一般にスタイルが良い、顔が良い人ですら嫉妬が理由で嫌われることがあります。目の保養です。美男美女いつもありがとう。
それはそれとして見た目よりも性格や振る舞いなどを理由に嫌われるのが大半です。自分勝手だとか優柔不断だとか。嫌われがち。
誰からも嫌われない人間は存在しませんが、生まれて間もない頃は誰もが褒められて生きて来たのです。「歩いた!すごい!」「ママって言った!すごい!」
物心つく前からきっと褒められる心地良さを知っているんでしょうね。だからこそ元気がなくなった時に「褒められたい、肯定されたい」と求めるのでしょう。
息ができて偉い。肯定ペンギン。そんな感じ。