とある成人男性の自分語り

お酒を飲んだある日のこと、隙に付け込んだ自分語り(昔話)を披露した私に「本書けそうな内容じゃん」と友人が言ってくれた。
文字にして振り返るのも面白そうだと思い、私の過去を書き連ねる。
こんな人生もあるんだな~、くらいに思って読んでもらえれば結構。他人の自分語り聞くの好き。これ読んだら誰か真似して書いて読ませて、聞かせて。

 

1.生まれてからしばらくの間は「普通の家庭」を自認していた


【誕生】
1995年1月、お米県に生まれる。
母、祖母、祖父、兄弟のいる家庭の末っ子。
兄弟は6つ上の兄と2つ上の姉。
物心つく前に両親は離婚しており、父親と共に生活した記憶は無い。

【幼少期】
父親は単身赴任と聞かされていたため、私の家族構成は一般的な家庭と何ら変わらないと思っていた。
しかし、子どもながらに裕福ではないことを察していたため、与えられる以上のものは求めず、そんな環境でも日々楽しく、よく笑い、活発な子であった。保育園でモテた。

【変容期】
性格や価値観が大きく変容した時期は小学校高学年の頃。
要因として挙げられるのは以下の出来事である。


・祖父の死。悲しみと死の恐怖に覆われる。
・かつて憧れだった兄の反抗期。母の涙。湧き上がる「正しさ」への執着。
・姉の社会性欠如。対人関係が上手くいかず不登校になる姉。友達の輪を維持する意識の定着。
・単身赴任と知らされていたが、両親の離婚に薄々気づき始める。疑念から生じる不安と罪悪感。
・「幸福量保存の法則」との出会い。不幸も受け入れる精神(諦め)の芽生え。

 

それぞれの詳細について後ほど掘り進めるが、変容期を迎えて性格はガラッと変わった。
幼少期に遠慮なく振りまいていた笑顔は失い、笑わなくなったことを理由に小6当時付き合っていたミキちゃんにも振られた。
小学生の恋愛、交換日記やりがち。車道側を男が歩くこと求めがち。

 

2.変わりゆく性格と価値観、取り巻く環境に影響を受けて


・祖父の死。悲しみと死の恐怖に覆われる。
 小学校で授業を受けていたある日の午後、担任ではない先生が教室に訪れて私を連れ出した。事態を把握することもできないまま、学校へ迎えに来た母の車に乗り自宅へ戻り、和室には祖父の遺体が入った棺桶があった。
 優しく穏やかだった祖父がもう喋らない、亡くなったことを理解すると涙は溢れただひたすらに悲しかった。生まれてから初めて親しい人の死に直面し、人生には死という終わりがあることを知った。そして恐怖した。
 祖父の死から数日間、人が死ぬ瞬間は苦しいのか、死後は何があるのか、何もないのか、理解できないことに怯えた。熱も出した。時間が解決してくれることもあり、日を追うごとに恐怖は薄れていったが、祖父の死を受けて「人生は終わる」ことが心に刻まれた。
 そこから考えは広がり、自分自身の人生についてほんのり考え始めた。
 
・かつて憧れだった兄の反抗期。母の涙。湧き上がる「正しさ」への執着。
 兄は中学校まで成績優秀、部活動にしていた剣道の腕前もなかなかのもので、まさしく文武両道であった。県内一の偏差値を誇る高校に進学した兄は親戚からも評判で、多趣味で様々な遊びを教えてくれたこともあり、私の憧れでもあった。
 ところが、高校進学後から始めたバンド活動に熱意が傾いたころからは趣味一辺倒になり、高校は不登校、自宅でドラム叩いてうるさい、バンド友達とつるみ始めてからはHなねーちゃんを自宅に連れ込むこともあった。(当時小学生のかわいい私はHなねーちゃん達に人気だったので、これはとても良かった)
 乱れた生活を送る兄を見かねた母がある日説教をすると、「うるせぇババア!半端に母親面するな!」と鋭いナイフ(比喩)で兄が反撃した。
 何も言い返さず自室へ戻る母。家から去っていく兄。その現場に居合わせた私も憧れだった兄の信じられない姿に怯え、すくんでしまったが、母の後ろ姿を心配に想いその後を追った。
 追った先で見た、寝室で涙を流す母の姿に心が痛んだ。何かしなければと思い「大丈夫だよ。大丈夫だからね」とひたすらに母を慰め、母の口からは「あなたはお兄ちゃんみたいにならないでね」と涙ながらに願いを託された。
 先刻まで憧れていた兄は一瞬にして真逆に位置してしまった。母を泣かせるような人生は歩まないと心に誓った。
 かつて憧れていた兄の良い側面は真似しつつ、趣味にふけることは「間違い」だと認識し、好きだったはずのお絵描きやお笑い芸人の真似事も次第にやらなくなった。
 
・姉の社会性欠如。対人関係が上手くいかず不登校になる姉。友達の輪を維持する意識の定着。
 (主に母にとって)悲しい出来事は続き、中学生だった姉が不登校になった。母と兄の衝突を受けて姉も何かしら思うところがあるのか、不登校の原因について姉が母に語ることは無かった。しかし、当時の私は持ち前の可愛らしさで何とか懐に潜り込み、その原因を姉から聞き出した。
 簡潔に言うと オタクな姉とオタクな友達の間に亀裂が生じたのだ。
 中学時代にアニメ、漫画にハマった人の多くは黒歴史と呼びたいほどの中二病を発症したことでしょう。そんな時期のクラスの雰囲気を思い出してくれるとイメージしやすい。多くの場合、オタクの肩身は狭かったのではないだろうか。オタクであることをバカにされる、バカにされることは無くともクラスの中心にいる人には一線引かれる、そのような扱いを受けた人は世に多く存在するはず。なんならオタク自身が「あいつら(クラスの中心にいる人)はバカ。俺は染まらない」と、より一層対立を助長するケースもある。少なからず私のクラスにはそれがあった。
 姉の話に戻るが、例外ではなく姉のクラスもオタクの肩身は狭かったようだ。だからこそ仲の良いオタク友達との絆が深く、尊いものだと姉は感じていたのかもしれない。
 引っ込み思案な上に気難しい姉、そんな姉の唯一側にいてくれた友達。何かしらのきっかけで仲違いした末、オタク友達は明るい人だったので新たな友達グループに溶け込んだ。一方の姉は他に付き合いのある友達もおらず、次第にクラスで浮く存在になってしまった。
 不登校、かつ引きこもりになった姉は祖母に説教され、それに対して姉も怒りをぶつけるような喧騒の日々が始まった(実家では継続中)。朝の身支度をしているときにも喧嘩をし、夕食時にも顔を合わせれば喧嘩する。そんな姿を横目に私は日々うんざりしながらも、普通に、正しく生きる決意をより一層固め、身近な反面教師から人間関係を円滑にすることの大切さを学んだ。
 
・単身赴任と知らされていたが、両親の離婚に薄々気づき始める。疑念から生じる不安と罪悪感。
 小学校高学年ともなると、一向に帰ってくることのない「単身赴任の父親」が気になってくる。帰ってくることもなければ家族間で話題にすることも無い父親は、単身赴任ではないと流石にわかります。ですが、母があえて噓をついたのであればそれを追求するのも野暮と思い、私は心の内に留めることにしました。
 ここで私の心を苦しめたのが「私が生まれた後に離婚したということは、私が生まれたことに関係する何かが離婚原因なのでは?」という、あまりにも不幸な思い込みでした。日常生活のふとした瞬間、この思いが心を蝕むようになりました。
 「私が生まれたことで愛情が分散してしまい、兄は不良になってしまったのかも」
 こんな調子で、私が生まれたことでor私が生まれなければシリーズで色々と考えることはありました。それらを振り払うためにも「せめて正しく、理想的な息子にならねば」という想いが余計に膨らんだのです。
 
・「幸福量保存の法則」との出会い。不幸も受け入れる精神(諦め)の芽生え。
 様々な出来事から妙な人格が形成されていく中、私の危うい心を守ってくれたのが「幸福量保存の法則」でした。
 小学生当時は図書館の本を手当たり次第に読んでいたので、たまたま手に取った本の一つがそれでした。いま検索してみると「人生における幸福と不幸の量は同じだとする考え方」なんて出てきます。
 当時の私はこの法則に触れて「私が不幸を感じた分だけ、どこかで幸福になる人がいるんだ!」と励まされました。いよいよヤバいですね。末期です。ですが、この考えが長いこと心の支えになったのです。
 不幸を感じた分だけ誰かが幸せになれる、いま幸せになる人がいなくとも将来の自分を幸せにできると思って健気に生きてました。どうかしてる。

 

3.私(小学校高学年フォルム)、爆誕


そんなこんなで私の基盤が出来上がりました。
もちろん自分で書いていても笑ってしまうくらいに、今とは考え方も性格も変化してます。
理想の姿を目指そうとするあまり、限界を迎えてメンタルクリニックのお世話になった過去もあります。
中学時代から現在にかけての振り返りだったり、メンタルクリニックにぶち込まれた経験はまたいずれ気が向いたら書くかも。
一旦満足した。

 

4.総括することもないので、終わり


繰り返しになりますが、これ読んだ人も自分語ってください。ぜひ。
人の目に触れることを厭わないならコメントにでもどうぞ。TwitterのDMでも。
読んでくれてありがとうございました。